プロフィール
コードリンク代表。1989年1月29日千葉県千葉市産まれの35歳。
webディレクターとしてメディア運営・製作を行い、自らプログラミング・デザインも行う。
高校在学中からITベンチャーで働き始める。2008年には最年少のメディア事業部部長として着うた・占いといった携帯電話向けサービスの立ち上げを担当。
2010年webコンサルティング会社へ転職し、メディア運営だけでなく一般業種へ向けたweb製作・マーケティングのスキルを磨く。その間個人としても複数のwebサービスも立ち上げ累計で月間300万PVを達成。
2015年に独立し、web/アプリ制作業務・メディア運営のプロデュースなどを行い今へ至る。
略歴
中学時代 -インターネットとの出会い-
2001-2003
入学当初はバトミントン部に入るなど普通の学生時代を送っていたところに、インターネットと出会う。その結果中学校一年生の後半には部活を辞め夜通しネット漬けに。
初期は掲示板やチャットなど、テキストベースのコミュニケーションを楽しんでいた。その頃はネットへの常時接続プランへ入っておらず、通信費が数万円になり親から怒られることに。(お年玉から補填)
その後「Age of Empires II」というゲームにのめり込み、海外プレイヤーとのネット対戦に明け暮れる事に。
当時ネット対戦というと対戦者同士がお互いのIPアドレスの入力をする必要があり、よく対戦相手募集掲示板があった。それを見て自分も作りたい!と思い、それが初のホームページ作成となる。
今でこそネット対戦文化は家庭用ゲーム機でも当たり前で簡単なことだが、当時はそれが不便だったからこそ、自分が技術を学ぶ切っ掛けになったというのが感慨深い。
そこで満足し、普通の青春を謳歌すれば良かったところに、次はガンホー・オンライン・エンターテイメント社(今はパズドラの運営会社として有名)が運営する「ラグナロクオンライン」というネットゲームにハマることに。
その中で"ギルド"と呼ばれるいわゆるチームを組む制度があり、そこで20人規模の大学生や社会人がメインのギルドに入ることとなる。皆さん現実社会のことをあまり多く語る事は少なかったけれど、デザイナーやプログラマー、ゲームクリエイターといった職の人が多く、彼らとのゲーム内チャットの日々が今の将来の元になっていたのかもしれない。
残っていた当時のキャプチャ。騎士・アサシンを使い、レベルは96程度でオーラは出さずに終わった。
受験も近づき、この様な文化からは自然と離れていくことになったが、一番楽しくネットの消費者となっていた頃だった。
軽く補足すると、特に引き籠もるようなこともなく、生徒会にも入っていたりと学校生活もまともに送っていた。なぜか脚は50m走6秒台と速く、部員の足らないサッカー部の数あわせに入ったりも。ちなみに球技はド下手。
高校時代 -webを仕事にする第一歩-
2004-2006
ゲームを封印し高校受験を終え、アーチェリー部の活動などにも励みインターネットと距離を置いていた。
しかし、アルバイト禁止の高校ながらお金を欲しいという時に、アフィリエイトなどインターネットで稼げるらしいという甘いささやきに酔わされることに。
中学生時代のホームページ技術を使い月数万程度収益を出しホクホクする。もう跡形も残っていないが、たしか占いの公式情報まとめサイトだったと思う。時代的に、細木数子さんや江原啓之さんなどのメニューがよく売れたことを覚えている。
占い自体は元々好きでその後も収益関係なしに「ケー占.net」みたいな名前で、無料の占いまとめサイトなども運営していた。今も自分の本棚には占星術書のコーナーが。
適当にまとめてこれなので、たぶん倍はある。
そして当時流行っていたmixi内で、アフィリエイトに関するコミュニティも運営。ここでも中学時代のゲームコミュニティ作りの経験値が生かされ、最大規模のコミュニティに。
そのコミュニティやその他運営していたブログ経由で、後にお世話になるIT企業の取締役と出会い、その会社でアルバイトとして働くことに。
そのまま受験シーズンが近づく高校2年生の頃、「うちでそのまま働けば?」と勧誘を受け考えることに。
当時、村上龍さんの書籍「13歳のハローワーク」などが売れていた時期で、終身雇用という考え方も変わってきていながらも、まだまだ大学に行くのが当たり前の時代だったのに関わらずなぜか振り切って進学を辞め働くことに。
しかも高校はそのまま卒業すれば良いのに、大学へ行かないなら無駄であると考え通信制の高校に転校することに。両親や恩師には感謝と謝罪の念を改めてお送りします。
ITベンチャー時代
2007-2010
高2の17才から渋谷のITベンチャーで平日、朝から晩まで働く日々に。さらに土日は高校へ。
当時は「携帯」というと今のようなスマートフォンでなくいわゆるガラケーの時代で、その公式/勝手サイトの運営などに関わる。
まだGoogleがPCと携帯の検索結果を分けていた時代で、携帯向けのSEO・PPCに造形を深め、その講師業や自分名義でないが書籍の執筆にも携わるなどことにもなる。
当時書いていたブログ(現在は別ブログへ移動)の記事は、はてなブックマークというブックマーク共有サービスで、1000登録を超えるといったこともあった。(手っ取り早く携帯サイトを作成する時のhtmlテンプレート 2016/11/29現在 1219ブックマーク)
そして、20才の頃にはメディア事業部の最年少部長として、メディアの立ち上げから運営まで担当し年間数千万円規模ながら売上げを立てることとなる。月間数百間万円規模の広告予算をリスティング広告やASP出稿で運用する経験を積むことに。
部長合宿時の一枚。
当時はITベンチャーといえど今のように開発環境も整っておらず、とにかくマンパワーで頑張るアナログな世界だった。その激務の中で、最初はエクセルの関数・マクロという当たり前のところから始まり、システムによる自動化の大切さを学ぶと共に、それが自分でもプログラミングをする切っ掛けとなった。
チーム内で「祭壇」と呼んでいた自動化プログラムが稼働していたPC群。
そんな中、ガラケーの時代が終わりに差し掛かり、スマートフォン・アプリなど新しい技術が出始める中で、部長という肩書きはあれどメディアの運営に少し関わっただけで、デザインやプログラミング知識に乏しい自分に疑問を持ち始めることに。
とはいえ、予算や終電に追われ学習に割く時間的余裕もなく転職を決意することとなる。フルに貯まっていた有休消化はロンドンへの一人旅へ。雨季に行ったのだけれどだいたい晴れていた。
当時自分で撮影した写真。旅の途中一度通り雨が降った程度だった。
修行時代 -夜な夜なwebサービスを作る-
2010-2014
webコンサルティング会社に転職しディレクターとして働く傍ら、自分でwebサービスを作るなどして技術を学ぶ。
当初はデザインもプログラミングも、周りの人間に教えてもらいながら独学。その後は仕事の終わりに専門のスクールにも1年間以上通い続けながら夜な夜なサービス作りで腕を磨く。
各サービスのマスコットキャラ。名前はまだない。
デザインだけ・プログラミングだけ・マーケティングだけ、というのが性に合わず、それらすべてを使うwebサービスというフィールドはとても面白かった。
作る技術だけでなく、SEOを始めTwitterなどSNSを通したマーケティングにも自然とより詳しくなっていくこととなった。
他の仲間と共同で製作した都合、ここには掲載していないサービスにはなるが、一日数十万アクセスを呼び、Twitterで数十万フォロワーを獲得するといった経験なども積むことになる。
歌い手データベースでも、60万以上のフォロワーを抱える歌い手さんを始め数多くの方へ見て頂けることになった。
これらサービスは、他メディアとコラボ展開することもあり、7年間以上ランキング動画を製作されてきた方のバックナンバーをテキストとしてウェブ上にアーカイブしたり、産総研の音楽観賞サービスご協力の下、より快適に視聴する仕組み作り等も行ってきた。おもしろい RT @remyu0817: レミューの歌ってみた一覧 | 歌い手DB
— そらる(アローラのすがた) (@soraruru) 2014年11月18日
http://t.co/NSHv1PVZxE
こんなまとめサイトあったのか!!
2015年6月:「週刊VOCALOIDとUTAUランキング」と連携し、Songriumの連続再生機能のリンクを毎回掲載開始。週刊歌ってみた、週刊演奏してみた、月刊UTAUのランキングとも同様に連携 https://t.co/C1T3w1YYbk #ボカロ未来予想 #vocacon
— Masataka Goto / 後藤真孝 (@MasatakaGoto) 2016年10月30日
この活動は収益をまったく産まないものであるが、多くのユーザーに利用してもらうことでき、自分が学生時代からお世話になっているwebの世界に対して、一つ恩返しができたのかもしれない。
それらを経て、2014年25才の時に独立。
現在 -次の周へ-
2015 to present
独立し2年弱となるが、なにか大義があって独立したというよりも、何か流れに乗ってそうなったように感じる。独立後1年はweb製作を請け負ったりしながら、自分が作ってきたwebサービスの改修などをしていた。
その時は屋号も定めておらず、その名を決めロゴや名刺を作ったのは2016年の秋になってからだった。(独立して1年以上持ってなかった。笑)
この名前を決めたのも、「決めよう!」と決意したというより「あ、コードリンクって名前なら付けても良いな。」となんとなく降ってきたようなイメージで、それによりこれまでの活動が一つ整理されたように思う。